TOYOTA FUDOSAN

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Company History 歴史・沿革

歴史 沿革

進化し続けるトヨタ不動産の歴史

長い歴史の中で信頼を大切にしながら、今なお進化を続けるトヨタ不動産。ここでは、当社設立の経緯と、これまでの軌跡をご紹介します。

創業期~戦後復興の中で

1940年

名古屋駅地区の誕生

1886年、明治政府が計画した東京・京都の東西を結ぶ幹線鉄道整備の一環として、現在の笹島交差点付近に「名護屋停車場(笹島ステーション。翌年、名古屋駅に改称。)」が誕生しました。その後まもなく、幹線鉄道のルートは中山道経由から東海道経由へ見直し変更となり、名古屋駅は東海道本線の主要駅として発展します。1937年には、当時「東洋一」を冠する新しい名古屋駅舎が現在のJR名古屋駅の位置に誕生し、駅前の桜通をはじめとした道路も拡幅整備され、名古屋駅地区が大きく発展していくための骨格が定まりました。1940年、名古屋市は再開発の一環として、名古屋駅前の土地(現在のミッドランドスクエアの敷地の一部(770坪))を払い下げることとなり、豊田利三郎(豊田佐吉の娘婿)がそれに応じた時に、当社設立の種が蒔かれました。

東洋一と呼ばれた当時の名古屋駅
拡幅された桜通

1946年

豊田産業の設立と「豊田会館」の建設

豊田喜一郎(豊田佐吉の長男、自動車産業の創始者)は早くから、自動車の販売には割賦販売が必要だと考え、トヨタ自動車工業株式会社設立の前年1936年にトヨタ金融株式会社(以下、トヨタ金融)を設立しました。翌1937年に日中戦争が始まると、経済統制も厳しくなってきたため、1940年の株主総会で、「不動産の所有、利用又は管理」と「有価証券の保有並びに他の事業への投資」という文言を事業目的に追加します。

トヨタ金融は、次第に持株会社としての役割を担っていき、1942年に豊田産業株式会社(以下、豊田産業)に改称します。 豊田利三郎が払い下げを受けた土地は、戦時中に有効利用できないまま終戦を迎えましたが、戦後間もない豊田産業の取締役会で本社事務所の建設が議論され、1946年に豊田会館が建てられました。

1946年当時の豊田会館
1946年頃の名古屋駅エリア

1953年

トヨタ不動産の前身「東和不動産」の設立

戦後まもなく、豊田産業は財閥解体の対象となり、1948年にその後継会社として日新通商株式会社(以下、日新通商)が設立され、商業・貿易部門を継承しました。日新通商は1956年に社名を変更し、今日の豊田通商株式会社(以下、豊田通商)に至っています。
一方、不動産の所有管理および有価証券の保有については、GHQの管理統制下の中にあっては時節の到来を待つことを余儀なくされましたが、1951年頃から、経済の復興に貢献すべく、豊田会館を建て直して賃貸オフィスビルにする構想が検討されます。 1953年には、トヨタ自動車工業・豊田自動織機製作所・日新通商が主要株主になって出資することが申し合わされ、東和不動産株式会社(現:トヨタ不動産)が設立。初代社長には、日新通商の社長であった岡本藤次郎が兼務して就任しました。

豊田産業(株)社長
トヨタ自動車工業社長

豊田 利三郎

豊田産業(株)副社長
日新通商 初代社長
東和不動産 初代社長

岡本 藤次郎

豊田ビルの建設から大阪豊田ビル建設後の1964年まで、10余年に亘り、つねに陣頭に立って会社の礎を築いた

近代的賃貸ビル建設を目指して

1955年開業当時の豊田ビル
1962年竣工当時の大阪豊田ビル

1955年

時流に先んじる複合施設「豊田ビル」竣工

1955年、地上9階・地下2階、延床面積1万坪の新築ビルとして名古屋駅前に竣工した豊田ビルは、名古屋地区における本格的賃貸オフィスビルの先駆となりました。建物は、貸事務所のほか、1階には銀行・証券会社の店舗や物販店舗、地下1階と地上2~5階には映画館、地下2階と地上1~2階には飲食店舗が入居し、6~7階には多目的の貸ホールを設置するなど、当時としては斬新な複合施設でした。

1955年当時の中部日本新聞(現:中日新聞)紙面広告

1957年

日本初の本格的な地下街
「名古屋地下街」の誕生

名古屋地下街は、全国で初めて、通路の両側に店舗を備える本格的な地下街として1957年に誕生しました。最初の名古屋地下街は、地下鉄名古屋駅の南改札口から笹島角までを帯状に繋ぎ、豊田ビルをはじめとする東側のビル群と西側の諸施設を連絡する一大ショッピングセンター街となりました。また、ビルと地下街の相互連絡に階段を必要とすることのないよう、ビルの地下1階のレベルを考慮しながら設計が進められ、当社もいち早く賛意を表明しました。この名古屋地下街は、歩行者に安全な通路を提供すると共に、地下を通じて面としての広がりを持つ名古屋駅地区の特長の一つを形づくりました。

地下街と連絡する豊田ビル入り口
1957年当時の名古屋地下街平面図

1961年

「豊田ビル新館」竣工と高度経済成長期

豊田ビルが好調なスタートを切り、高度経済成長期の好況持続によるビル需要の増大が見込まれる中、豊田ビルの増築構想が浮上し、1961年に豊田ビル新館が竣工しました。地上11階・地下3階建てで、各階とも新館・旧館が接続した一つのビルとして機能するとともに、地下・中地下・地上のそれぞれに122台収容の大駐車場を設けた多目的ビルが誕生しました。地下店舗数は約50店舗と、単一ビルの地下店舗としては当時、中部圏随一の店舗数であり、延床面積約2万坪を誇るその威容は群を抜いていました。

1961年当時の豊田ビル新館

1962年

「大阪豊田ビル」竣工と大阪への進出

当時、大阪におけるトヨタ関係会社は豊田自動織機製作所が所有するビルに集結していました。しかし、執務スペースが手狭になったことから、新たな貸ビルを建設することを1959年の取締役会で決議しました。そうして、大阪市最大の目抜き通りである御堂筋に面し、心斎橋まで徒歩1分という好立地に大阪豊田ビルは誕生しました。

耐震工事前の大阪豊田ビル
1962年当時の心斎橋

業容の拡大

1973年当時の第二豊田ビル東館・西館
現在のセンチュリー三田ビル

1973年

「第二豊田ビル」竣工と
名古屋駅前での事業拡大

1960年頃、豊田ビルの近くに建設用地を確保できそうな状況が見えたことから、事業活動の拡大を目指し、名古屋に2つ目の賃貸ビルを建設する計画が持ち上がりました。新ビル用地は、土地の交換も含めた名古屋市との折衝を経て確保すると共に、狭い道路を挟んで向かい側に位置していたトヨタ自動車販売本社ビルの土地と建物も購入することとなりました。こうして、道路を挟んだ2つの土地のそれぞれに、西館・東館と呼ぶ建物を開発し第二豊田ビルと総称しました。これら2つの建物は地下駐車場等を介して接続されるだけでなく、泥江町通りを挟んで向かい側にあった中経ビルとも地下連絡路で接続し、「駅から濡れずに行けるビル」を実現しました。

道路を挟んだ第二豊田ビル東館・西館

1989年

「センチュリー三田ビル」の
受託管理開始と東京への進出

東京トヨタ自動車(現:トヨタモビリティ東京)の本社ビルの新築プロジェクトとして誕生したセンチュリー三田ビルに関して、当社は竣工以降、4階から最上階までの全フロアを一括で借り受け、転貸を行うと共に、ビル全体の管理を請け負う※こととなりました。これを機に当社は、トヨタグループの不動産事業者としてグループへの貢献と東京への進出を果たすことができました。

※2023年7月、当社はトヨタモビリティ東京とのセンチュリー三田ビルに関するマスターリース契約を解除し、受託管理は終了しました。

1989年当時のセンチュリー三田ビルのパンフレット表紙

2002年

「センチュリー豊田ビル」竣工

豊田ビルの主要テナントである豊田通商の本社ビル用地として、当社は名古屋都ホテルの土地を取得し、「使いやすく、高機能対応を実現した理想の賃貸ビル」をコンセプトとするセンチュリー豊田ビルを開発しました。テナントには映画館・物販店・飲食店などを誘致したほか、ETCの無線技術を応用した日本初の駐車場システムを導入するなど、本物件の竣工は、当社の名古屋駅地区におけるさらなる事業拡大へのきっかけとなりました。

センチュリー豊田ビル

第二の創業期

ミッドランドスクエア空撮
名駅街協が主催する「メイエキイルミ」の様子

2006年

「ミッドランドスクエア」竣工

1955年以来、長きに亘り多くのテナント様やご来館者様に愛されてきた豊田ビルは、隣接する毎日ビルとの共同建て替え構想のもと、地上47階・地下6階・高さ247mのオフィスタワー、地上6階・地下5階の商業棟で構成された超高層複合ビルへと生まれ変わり、当社は本再開発事業にあたって、デベロッパーとして企画構想段階からプロジェクトを推進しました。また、これを機に当社としては初めて明確なコンセプトを持った本格的な商業施設の運営事業に参入することとなりました。さらに、既存の地下街や隣接するビルとシームレスに接続されたサンクンガーデンや商業棟地下1階アトリウムは、ミッドランドスクエアの特徴の一つであり、人の流れの活発化させるための仕掛けとして名古屋駅前の賑わい創出に大いに貢献するものとなりました。

ミッドランドスクエア

2008年

「名古屋駅地区街づくり協議会」発足

名古屋駅地区のエリアマネジメントを一体的・効果的に推進することを目的として、当地区の地権者・周辺事業者と連携しながら設立した名古屋駅地区街づくり協議会に関して、当社もその一員として参画し、年間を通じた様々な活動に取り組んでいます。リニア中央新幹線の開業を控える名古屋駅地区が、世界に開けた中部圏のゲートウェイとして、さらに魅力と多様性にあふれる街となるよう、当社は引き続き本協議会の活動に邁進します。

2016年

「シンフォニー豊田ビル」竣工

1973年以来、道路を挟んで東西に分かれて姿を見せていた第二豊田ビル跡地の再開発に際し、当社は、道路の付け替えによる利便性向上を実現しながら、店舗・映画館・オフィス・ホテルと多彩な都市機能を集約した高さ115mの複合型高層ビルを開発しました。本物件は、これまで主に名駅四丁目エリアで拡充してきた当社保有ビル群同士の地下環状ネットワークとも接続し、エリアのさらなる回遊性向上に貢献しました。

シンフォニー豊田ビル

2016年

トヨタグループ蒲郡研修所
「KIZUNA」開所

KIZUNAは、トヨタグループの結束力・競争力強化、グループ全体の経営人材育成と一体感醸成を目的とし、「創業時のワクドキ」「クルマのワクドキ」「自然の叡智へのワクドキ」の3つのコンセプトのもと開発した研修施設です。本施設は、愛知県南東沿岸部の観光地である蒲郡エリアに位置し、地上3階・延床面積約9,000㎡の建物には、50室の宿泊室・8室のクラスルームのほか、大会議室などの各種設備を備えています。

トヨタグループ蒲郡研修所「KIZUNA」
トヨタグループ蒲郡研修所「KIZUNA」

新たなステージへ

社名変更前後の会社ロゴ
「築地地区まちづくり事業」に事業会社として参画

2019年~

事業の「幅」と「エリア」を拡大

2019年以降、axle(アクスル)御茶ノ水や、なごのキャンパスといったインキュベーション施設の開発や、富士スピードウェイホテル開業に伴うホテル事業への進出、そして、お台場・青海のTOYOTA ARENA TOKYOの開発や、東京都心エリアにおける都市開発事業への参画など、事業の「幅」と「エリア」を着実に拡げています。

富士スピードウェイホテル
トヨタ東京ビル(水道橋)の取得

2022年~

トヨタ不動産への社名変更と
東京本社の設置

未来に向け、トヨタグループの総合デベロッパーとしてさらなるチャレンジをしていくにあたり、2022年4月、社名を「東和不動産」から「トヨタ不動産」へと変更し、2024年1月には東京本社を新たに設置して名古屋本社との二本社制を開始しました。トヨタ不動産はこれからも、より多くの人々や社会の役に立つ様々なまちづくりに挑戦します。

1953年8月
トヨタ自動車工業(現、トヨタ自動車)、豊田自動織機製作所(現、豊田自動織機)、日新通商(現、豊田通商)が出資し、資本金1億5000万円をもって「東和不動産株式会社」を設立
1955年11月
名古屋駅前に豊田ビル竣工
1962年4月
大阪心斎橋に大阪豊田ビル竣工
1973年7月
名古屋駅前に第二豊田ビル(東・西館)竣工
1989年10月
東京三田に東京トヨタ自動車本社ビル(現、トヨタモビリティ東京三田店)「センチュリー三田ビル」竣工、その受託管理を開始
2002年12月
名古屋駅前にセンチュリー豊田ビル竣工
2005年11月
トーワメゾン烏森(70戸)竣工
2006年9月
名古屋駅前にトヨタ自動車・毎日新聞社との共同事業によるミッドランド スクエア竣工
オフィス棟オープン
2007年3月
ミッドランド スクエア グランドオープン
2007年8月
トヨタ名古屋ビル(現、トヨタホーム栄ビル)の受託管理を開始
2012年6月
名古屋駅前に中部経済新聞社・名古屋鉄道(現、名鉄都市開発)との共同事業による名古屋クロスコートタワー竣工
2014年3月
名古屋駅前の近鉄新名古屋ビル(現、桜通豊田ビル)を取得
2016年6月
名古屋駅前にシンフォニー豊田ビル竣工
2016年11月
蒲郡市にトヨタグループ蒲郡研修所 KIZUNA 竣工
2018年1月
柳橋食品ビル株式会社の株式を取得
2019年10月
旧那古野小学校跡地に なごのキャンバス開業
2020年5月
東京御茶ノ水にaxle御茶ノ水 開業
2021年11月
株式会社アイ・エム・エーの株式を取得
2022年4月
「東和不動産株式会社」から「トヨタ不動産株式会社」に社名変更
2022年10月
富士スピードウェイホテル開業
2023年2月
トヨタ自動車 東京本社ビルを三井不動産と共同取得
ビル名を「トヨタ東京ビル」に変更(文京区)
2024年1月
東京本社を設置し、名古屋本社との二本社制に移行
2024年2月
J6 フロント(渋谷区のオフィス・商業ビル)取得
2024年4月
東京都が募集する「築地地区まちづくり事業」において3社の事業会社の内の1社として参画